母のアルコール依存症による苦しい家族の過去と、母の亡くなった後の複雑な気持ちについて相談したい女性がいます。
※長いので読んでいただける方だけでオッケーです。
4年前に母が亡くなりました。
私と妹は近くに住んでいて
子どもたちも連れてまぁまぁな頻度で
実家に帰っていました。
死因は脳梗塞と肝硬変です。
母は私が小4のときぐらいから
お酒にハマりました。
心が弱い人だったのでストレスをすべて
お酒にぶつけるような性格でした。
なので私の小4からの記憶は
思い出したくないほど悲惨でした。
毎日何リットルかわからないパックの
酒を買ってきては飲み続け
朝からベロベロに酔った母。
参観日や行事ごとは平気ですっぽかす。
部活していたのですがお迎えも
うちだけ無し。2キロを歩いて帰ってました。
行事にきてもお酒が入っている状態で
会話が噛み合わない。
人に会うのが恥ずかしくてどうにか酔っ払った母を
学校から人に接さず連れて帰るか、そればかり考えていました。
中学に入った頃にほんとにやばくなり
アルコール多量摂取でご飯も食べない
寝てばかりの状態が続き
親族や祖母に話し一度入院させました。
それまでは我が家4人しか知らず
親戚にも隠していました。
中2で母が退院して1ヶ月もしないうちに
いろいろなところにお酒を隠してまた飲み始めました。
その頃には私も母の依存症に苛立っていて
何回も喧嘩し罵倒しました。
最初は寄添おうとしてお酒をやめる会にも勧めましたが
行きたがらず自分で治すから。と。
この頃は家庭内は最悪でした。
しょっちゅう両親が喧嘩し物が飛び
酔った母に茶碗を投げられ足を縫ったことは
鮮明に覚えています。
高校になってからもそんなかんじで
帰ってきてもご飯もなく冷蔵庫も空っぽ
掃除も洗濯もしていないので料理は
私達姉妹が帰ってから作り、
洗濯は父がしていました。
それからしばらくして本人もさすがにまずいと思ったのか
飲んでる期間1ヶ月弱と飲まない期間1ヶ月ぐらいが
交互に続く生活になりました。
もうこの頃には飲んだときの顔つきと飲んでいないときの
顔つきがはっきり区別できるぐらい母の状態がわかるようになっていました。
祖母や親戚には退院してからの状態はひたすら
隠してました。祖母には入院のときに大金を出してもらったのと心労で祖母が泣いていたので
また飲み始めたなど口が裂けても言えず
私達と父の間での絶対の秘密でした。
母はそれを逆手に取るかのように
親族の集まりでもお酒を飲んで参加したりしていて
言動がおかしかったりしてもまさか誰も
また飲んでるだろうと思わなくて、私達家族も
母をフォローして誤魔化すのに必死でした。
それが長期間続いたのでもう慣れていました。
私が25で結婚してからもそんな日々は続き
飲んでいない期間に子供を連れて遊びに行ったりしてました。この頃は扱いにもなれていたし私達は家を出ていたのでそんなに関わってはなかったのですが
父は辛かったと思います。
28のときにまた母が飲みすぎて入院。
このときに肝硬変が酷く糖尿病になりました。
インスリン注射で毎月2万以上かかる生活がはじまり
母は専業だったので実家はお金もなく
父もずっとイライラしてました。
孫への態度もお金がないのが丸わかりな感じで
雛人形や兜もお金ないから察してくれとも言われました。
幸い祖母からの援助はあったそうです。
祖母には糖尿病になったことしか伝えてませんでした。
その退院以降、母は次飲んだら命はないと言われたこともありお酒をやめました。
私の下の子も生まれ28からの1年間が
母と過ごした中で一番家族の心が穏やかで
幸せな日々でした。今でも思い返すと涙が出ます。
その後29歳になる1ヶ月前ぐらいに父から連絡が来て
母がまた飲みだした、と。
父ももうしんどい。と母を放置していました。
その連絡があって2週間後、母が肝性脳症になりました。
いわゆる、せん妄です。頭がおかしくなったということです。お酒を再開したのでインスリンも打たなくなり
尿が脳に回ってしまいました。ずっと壁に向かって
降りれんのよ、と足をバタバタさせてました。
かかりつけの病院に行くとあるきまわるので入院できる状態じゃない、ベットも空いてない、と言われ
私達家族が悪い、しっかり見張ってないからだと怒られました。
その翌日に母は意識障害になり入院。脳梗塞といわれ
その後2日後に亡くなりました。
すごくかなしくて泣き続けました。
祖母にも親族にもこれまでの過程を言うと
なんでもっと早く言ってくれなかったのか、と
怒られ。。
心配かけたくなかったといってもその結果がこれだと罵られ、「私達が悪いの?あなた達が今事実を知って感じた
ショックより私達がこれまで20年近く感じてきた悲しみの方には心を傾けてくれないのか」と思わず反論してしまいました。
母はお酒が入っていないときは
本当に優しい母でした。
おやつを作ってくれたり話を聞いてくれたり
すべてが嫌な思い出だけではありません。
とても悲しいし今でも生きていてくれたら子供の
成長した姿を見せてあげられるのに、とも思います。
ただ、どこかで胸のつかえがとれて
ホッとしている自分もいます。。
毎年母の命日が近くなると
昔を思い出しては申し訳ない気持ちになります。
ホッとしていた自分にも罪悪感があります。
どこかでこのコロナ禍が始まる前に死んでいてくれて良かったと思う自分はおかしいですかね。。
母がなくなってから胸のつかえは取れましたが
また別の意味でつかえができてしまった気分です。
長い投稿を見ていただきありがとうございました。
- ママリ(6歳, 8歳)
コメント
退会ユーザー
とてもお辛い時期を過ごされたのですね。
母の死因は違いますが、とても気持ちがわかるので思わずコメント失礼します。
自分語りが入るので、無視していただいても結構です。すみません。
私の母もメンタルが弱い人で、父に依存して生きてましたが私が5歳の頃、父の不倫が発覚しお酒が入っていた両親は大喧嘩。
最終的に私と姉の目の前で殴り合いにまで発展し、父親が母に馬乗りになって顔を殴る光景は今でも忘れられません。
その後すぐに離婚しましたが母は鬱病を患っており、1年ほどで仕事もできなくなり、生活保護で暮らしましたが、そもそも家事がままならない状態で姉は家事がめっきりなので、ほとんど私がこなしていました。
そんな状態なのでよく祖母宅に三人で泊まっていたのですが、祖母は両親の離婚の原因はお前(私)にある、お前が男に生まれてれば離婚しなかったんだ
と責め立て、私にだけ湯呑みをなげたり包丁を持ち出したり怒鳴りつけたり。虐待されてました。
母は完全に薬漬け状態で、日中はほぼ寝てるし起きてくるのは煙草とトイレと飯だけです
中3のとき、私がいじめに根を上げて父親の家へ引っ越し、転校しました
それをきっかけに母がよりおかしくなりだしました。親にはなりきれてなかったけど、子どもは心から愛していた母です。
中3の終わり、姉もあと1年で家を出る時期です。(2つ上です)
母はそんなことが重なりODをしました。
今までもあったし、4回ほどそれで入院しているので、ああまたか、といった具合でした
救急車は呼びましたし、どうせまた助かるだろうと思ってました。
でも母は死にました。
厳密に言うと最初に搬送された地元の病院で胃洗浄をされず、点滴でのみ対応されたため、薬がまわって死にました。
正直、今でも孫の顔見たら生き生きとしていただろうにとは思いますが、やはり
“死んでくれてホッとした”
というところがあります。
何度も母の人生に振り回され、母のスマホからは年下の男性に猥褻な写真を送っている履歴だとかが発見され、より一層そう思うときがあります。
でも、唯一の母親ですし、病気の波が穏やかなときの母はとても好きでした。
我が家は父親にも難ありなので、親に頼れず、祖母に虐待されていたので親戚に頼るという行為ができず
信用、信頼できるのは姉のみでした。
お互いに年を取ればもう少し親の呪縛から開放されるのでしょうか。
長々と失礼致しました。
moon
長い間お疲れ様でした。
よく耐えましたね。
アルコール依存症は病気です。
自分で治そうと思わないと治せない病気です。お酒を口にしない。強い気持ちがなければ治せない。
親戚は所詮他人事です。祖母さんも糖尿病になった時点で薄々感じてはいたと思います。何もしてあげなかった悔しさをぶつけてたんだと思います。
辛かったのは主さん家族なのに…
主さんもご家族も見捨てないでよくやったと思います。家族の縁を切ってしまえば簡単なのに。
辛い思い出ばかりじゃないってしっかり愛を感じます。
お母さんもきっと苦しかったと思います。
もう皆んな楽になって良いと思います。
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ママリ
ありがとうございます。
何度か縁を切ろうと思ったこともあります。
ただ父が不憫で思いとどまりました。
母も辛かったですよね。
私は小4から母が亡くなるまでの人生が
辛くて辛くて、可哀想なのは自分だと思い込んでいました。
母もお酒に頼るしかなかったのだと思うとしんどかったんだろうなぁと思います。
この気持ちに折り合いをつけれる日が早く来てほしいです。
コメントありがとうございました。- 3月25日
ママリ
長い投稿にコメントいただきありがとうございます。
よめろじさんも辛い思いをされてきたのですね。
思い返してみると決して辛いだけではなく
楽しく幸せな時間もあったので
とても複雑な心境です。
いつかこの気持ちに折り合いをつけれる日がお互いやってきたらいいですね。