コメント
ままり
亡くなった父方の祖母から防空壕のことを聞きました😖
はじめてのママリ
祖母から聞きました。
段々戦争経験者がいなくなりつつありますが風化してはいけない事実ですよね。
小学校時代には第二次世界大戦の地上戦が行われた沖縄の戦争学習を2年ほど勉強、沖縄へも2度ほど行っています。
自分の抱いている娘がどんどんウジで覆い尽くされる…自決を迫られる…子供は泣いて居場所がバレるからと母親が口に衣類を詰め殺害するように強要される…
戦争は本当に普通の人をも狂わしますね。
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はじめてのママリ🔰
忘れてしまっては苦しんで亡くなった人たちが浮かばれませんよね。
ほとんどの人が善人で、どうしてこんな目にあわなければならないのか。
小さな子供達が、なぜ大人でも逃げ出したくなるような苦痛を背負わないといけないのか。
あまりにも悲惨で気持ちがぐちゃぐちゃになって語彙力がおいつきません💧
これ以上、戦争の犠牲者を増やしてはいけませんね。
ありがとうございます。- 8月13日
はじめてのママリ🔰
祖父は徴兵の身体検査で体が弱くて合格しなくて、徴兵されず立川の戦闘機作ってる工場で働いてたと聞きました。
そういう場所なので近くに空爆もされて怖かったそうです。
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はじめてのママリ🔰
いつ空爆がくるかわからない場所での仕事は恐ろしかったでしょうね。
働いている間は家族のことも心配ですし…
ありがとうございます。- 8月13日
はじめてのママリ🔰
祖父母は亡くなってるので話したこともないけど、祖父母から聞いた話を母や伯母から聞いたことならあります。
祖母は地元に子供と疎開していたので特に困らず、祖父は戦闘機のプロペラ部分を作っていた、最後戦場に向かった時に終戦したが多くの友人を失ったと聞きました。
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はじめてのママリ🔰
戦場にも行かれたんですね。
今までお国のために戦闘機をつくり、命をかけてきたのに、最後残ったのは大きな傷でやりきれなかったでしょうね。
お祖父様が生きて帰ってこられたことが救いです。ありがとうございました。- 8月13日
ママリ
若かった曾祖父が飛行機工場で働いていたため、爆撃に遭ったそうです。
(工場などは戦力を削るために狙われやすいそうです)
一応生き延びることができ、結婚し私達も生まれた訳ですが、戦争の爆撃がトラウマになってしまい、晩年も雷が鳴ると押し入れに引きこもってしまう事が度々ありました。
子どもや孫たちに囲まれて、穏やかな生活を送りながらも、一生そのトラウマが癒える事なく死んでしまったので、それだけ恐ろしい思いをしたのだと思います。
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はじめてのママリ🔰
ありがとうございます。
今なら死ぬかもしれない場所で働けないと拒否する人が多そうですよね。
本当にとんでもない時代です…
胸が痛いです。
お祖父様の心の奥でまだ戦争は終わってないんですね。
小さい頃は「昔の人はとんでもなく強いメンタルだから戦争できたんだろうな」と思っていましたが、そんな事はないんですよね。- 8月14日
あみりん
うちの死んだじいちゃんはグアムに戦闘員として行ってそのまま2年間サバイバルしてました。仲間はみんな死に、終戦も知らなくて紙が降ってきて知ったそうです。民家から屋根とかを盗んで木の上で生活してたそうです!投降後はシベリアにもいったそうです。
木の上から落ちて腰も悪く足も撃たれて曲がってましたがいつも戦争で戦った事を誇らしげに語ってくれました!
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はじめてのママリ🔰
一秒先には死んでいるかもしれない戦地に2年もいて生き残ったら確かに誇りに思いますよね。
お祖父様の精神力と運動能力、生命力に驚きです。
わたしなら1日で自殺願望でてきそうです💦- 8月15日
こはね
もう亡くなりましたが、私の祖父は13歳の時に広島の原爆を体験しています。
父母と兄弟6人の中で生き残ったのは父と祖父だけ。
生きるため仕事をするため名古屋にきて祖母と出会い結婚し婿に入りました。
祖父に聞くと悲しませてしまうかなと思い直接聞いたことはありません。自分の父親から色々聞きました。
戦争ではありませんが、祖母から伊勢湾台風の被害については直接聞いたことあります。
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はじめてのママリ🔰
被爆者でしたか…
私も最近、YouTubeで被爆者の当時の話を聞きました。
地獄よりひどい状況なのではないかと苦しくなります。
被爆者の方々の心の傷が少しでも癒えていることを願います。
そして世界中の人々には「原爆投下は政治的な背景があったから仕方ない」ではなく、原爆投下直後の日本の写真や絵画、被爆者のお話に触れてみてほしいです。
災害の被害も恐ろしいですね。
伊勢湾台風は調べたことがなかったので調べてみます。- 8月15日
しままま。
体験談を聞いた訳ではないのですが、子供の頃にボランティアで介護施設に行っていた時に、認知症で家族の事も分からない方が毎回『あら、あなた無事だったのね。よかった。ご家族は大丈夫?』と聞いてきて、いつも穏やかな方なのにヘリコプターの音が聞こえた時は大絶叫でした。
施設の方が『小さい頃に亡くなったご家族の事をたまに言うくらいでもう殆ど覚えていないみたいなんだけど戦争の事だけは細かい事を話す事もあって。どれだけ怖い思いをしたのか…』と言っていました。
帰りに図書館で戦争の体験談を読んで号泣したのを覚えています。
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はじめてのママリ🔰
図書館にいき人の痛みを知ろうとするしままま。さんは温かい方ですね。
相手の痛みに歩み寄り、涙を流せる心が皆にあれば、戦争なんておきないのになと思います。
どうか施設で出会った方に心の平和がおとずれますように。- 8月16日
はじめてのママリ
生きていたら90になる寡黙な祖父はいつも、みんな戦争で死んだ、食べ物がなかった、と言っていました。
友人のお祖父様が特攻隊で、自分が乗る直前に戦争が終わった。だから自分は生きている。友だちはみんな死んだ。という話を聞きました。
祖母の父親も、祖父が2歳くらいのころに戦争で亡くなったそうですが、今も祖父(祖母の旦那さん)の仏壇の隣には戦争で亡くなった祖母の父親の写真(兵隊の格好をして地面に這いつくばって銃を構えている写真)が置いてあります。
火垂るの墓を観ても昔の人は泣かない、こんなことが当たり前だったからって話も聞いたことがあります。
自分が子どもをもって、今もし戦争になったら…この子達を失ったら…と思うとたまらないです。
上のコメントで子どもにウジが…布を詰めて殺すように強要される…もう辛すぎます。自分が死ぬ方が楽なのに。
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はじめてのママリ🔰
特攻隊の方々の遺書や写真をみると胸がつまりました。
聡明な文章に、凛々しい目元。この人たちは確かにいたんだなと実感します。
彼らの命はもっと大切に扱われるべきでした。
お祖父様の短い言葉には私たちに想像できないような話がたくさんあるんでしょうね。
本当にいっそのこと親子で即死させてくれと思うくらい残酷な時代ですよね。- 8月16日
退会ユーザー
私の祖母はわりとお嬢様で、元々横須賀に住んでいて、学校は白百合に通っていたそうです。当時は白百合女学院だったと言っていました。
ですが、戦争が始まってから横須賀は危ないとなり、家族で親戚を頼って疎開してきたそうです。
戦時中は学徒動員として、工場のようなところで働かされていたと言っていました。
食べ物がとにかくなく、カエルでもなんでも食べられるものは食べたそうです。
祖母が疎開した地域は田舎なので空襲はなかったけど、都市部て空襲があった時は焼けているのが見えたと言っていました。
この話は母方の亡き祖母が、生前,話してくれたことです。
父方の祖父は、片耳が聴こえないのと身長が低いので、戦争に行かずに済んだと言ってました。
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退会ユーザー
白百合女学院じゃなく、白百合女学校ですね
当時の白百合女学校は空襲で焼けて、もうないんだよとも言ってました- 8月14日
レン
祖父が海軍の軍人でした。
南洋にいるときに病気が何かで陸の病院に入院していたところ、本来乗っていた艦船が戦闘で沈没したそうです。もしその時船に乗っていたら、祖父は亡くなり、私も生まれてなかったんだろうな、と思います。
私が今の職業を選んだとき、親にはおじいちゃんと同じ道に行くのか、と言われました。
はじめてのママリ🔰
防空壕にいても安全とは限らなかったんですよね。
外の様子も見えないしきっと不安でしたよね。
ありがとうございます。